ブランコの柵に、シャツと靴下が乾燥のために、掛けられている。その向こう側には、倦怠感に満ちた老人がシートを敷いて寝転がっている。
そこに一人の若い女性が通りかかった。深く帽子をかぶっている。顔はほとんど見えない。彼女は、明らかに周りの視線を気にしている。私は、横目で彼女の行く先を追った。彼女は、一軒の性風俗店の従業員用のドアをすばやく開けて、中へと消えていった。
2004年5月28日14時50分。私が、吉原公園で目撃した光景だ。ちょうどこの場所は、日雇い労働者の街、山谷(さんや)と、江戸時代からの遊郭の街、吉原(よしわら)のあいだにある。この二つの街に、南千住(みなみせんじゅ)を加えた一帯は、人々の怨念に満ちた場所である。
JR南千住駅を降り少し南に歩くと、骨(コツ)通りがある。そのすぐ脇に、処刑具を持った「首切り地蔵」と小塚原処刑場跡がある。固有名詞からして、もう普通ではない。小塚原処刑場は、かつては「浅草はりつけ場」と呼ばれた。江戸時代の罪人を推定20万人強ほど、処刑して埋められた場所だ。首切り地蔵は、その供養のために立てられた。
実際の処刑はエタ・ヒニンと呼ばれる人々が行った。この付近は、かつての被差別部落があった場所でもある。
死体の埋葬といっても、罪人には土を軽くかぶせる程度だった。従って、野犬などの野生動物が、罪人の屍体をむさぼり食って、あたりには壮絶な異臭が漂っていたらしい。
ただし、特筆すべきは、杉田玄白は、ここでエタ・ヒニンと呼ばれる人たちが、罪人の死体を解剖する(これを「腑分け」という)のを見学して、オランダの解剖書の正確なことを確認したことだ。当時、「腑分け」の名人は、医者以上に人体を知り尽くしていた。少しくらい、この付近の住人たちが日本の医学の進歩に貢献したことに触れないと、あまりに気の毒だろう。
事実、この一帯には、異様なほど神社と墓場が多い。神社が多いのは、人々の怨念が溢れていたことの裏返しだろう。私は、南千住にある、松田松陰と彰義隊(しょうぎたい。戊辰戦争の旧幕府軍側の部隊。上野の決戦で破れた)の墓に参拝してきた。
この骨通りを南に5分ほど歩くと、山谷のドヤ街の入り口になる。この「ドヤ街」という言葉は、宿(ヤド)から来ている。スラム街みたいなものだが、ニュアンスが少し異なる。ドヤ街は、極端な、安宿が集まった場所だ。本当に特殊な宿しかない。山谷では、建物自体が、他では見られない、特殊な形をしている。山谷以外では、まず見られないだろう。南千住の北東側では、次々と現代的な数十階のマンションが建設されていて、それがかえって山谷の物質的欠乏を際立たせている。
ドヤ街を歩き回った結果、料金を掲示してある宿に関しては、最も安い宿で1泊\1900、最も高い宿で\2500だった。多くは、一泊\2000強だ。表に値段が書いてある宿は、たいてい「ビジネスホテル」と呼ばれる、比較的「立派なホテル」である。
もっとも、「立派なホテル」と言っても、ホテル・オークラやパークハイアット東京を思い浮かべてもらっては困る。あくまで、山谷の中では立派と言うだけだ。4階以下のものがほとんどで、ほとんど強制収容所みたいな「ビジネスホテル」まである。
もう、目を背けたくなるようなオンボロの宿は、たいてい宿(と呼べるのなら)の外に値段を掲示していない。開いた窓からは、強烈な生活臭が漂ってくる。「ビジネスホテル」と比較してみれば、こういう1部屋3畳くらいの広さの宿が、1泊\2000を切っていることは、ほぼ確実だろう。山谷では、一部屋に何人も詰め込まれる、という話はよく聞く。
宿泊している人たちの多くは、どうみても「理由あり」の日雇い労働者たちである。若い女性は、見当たらない。完全に男の街だ。私も、一人でこの付近を歩くのは、正直、怖かった。私は、21世紀になった日本に、こんなすさまじい光景が見られるとは思っていなかった。
この格安宿にも泊まれない貧乏労働者は、公園や道端で粗雑に寝転がっている。大半は、もう白髪混じりの老人に差し掛かった人たちだ。彼らに、厳しい肉体労働に従事できるだけの、気力と体力が残っているか、非常に疑問である。どう見ても、先細りである。
骨通り沿いで、上半身裸で体操している男がいても、誰も気にしない。何しろ、警察が「外出は明るく目立つオシャレから」という異様なポスターを貼っているくらいだ。山谷の内部にある交番は、3階建てで多くの警官が待機している。よっぽど問題が起きるのだろう、と容易に想像がつく。そういう場所だ。
本当にその辺の道端に格安宿に泊まる金さえないホームレスがあふれ返っている。ここが、日本の最底辺社会のひとつ、と言って差し支えないと思う。
皮肉なことに、この山谷と南千住の隣にある街が、ソープランドで有名な吉原である。ただし、山谷の住人は、貧乏だから、たいてい吉原で遊ぶ金など持っていない。
遊女は、遊女で、哀れなものだった。遊女は、遊郭で死ぬと、南千住の通称「投込寺」(浄閑寺)に、運ばれて、文字通り投げ込まれたらしい。今では、無縁塔や新吉原総霊塔の下に埋葬されている。「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と刻まれた句が、哀悲を誘った。浄閑寺に投げ込まれた遊女の平均寿命は23歳くらいだったそうだ。
吉原寺も、同じように遊女に追悼している。ただし、そのすぐ脇には、派手なソープランドの看板が並んでいる。何だか悪い冗談みたいである。遊郭(個々の店は「傾城」と呼んだ)から、売春禁止法の施行(1956年)によって、トルコ風呂へ。トルコ大使館の抗議を受けて(1984年)、ソープランドへと名前を変えたが、やっていることは昔から変わらない。因果なものだ。
結局のところ、権力、と言うより人間は、見たくないものは、一ヶ所に集めてしまう。実際に散策して、それがよくわかった。南千住一帯には、処刑場も、火葬場も、墓場も、ドヤ街も、売買春もある。見事なまでに、平穏な生活を送る上で「見たくないもの」が揃っている。しかも、「臭いものに蓋」と言うが、この付近は、本当に文字通り、何処からともなく異臭が漂ってくる。公衆トイレには二度と入りたくないくらいだ。積極的に、自分の子供をこのあたりで育てたいと思う親はいないだろう。
それでも、これらは人間が社会生活を営む以上、どれも、必要なもの、もしくは必要悪である。差別され、無視され続けた人々が、裏からこの社会を支えていたことだけは、忘れたくない。(了)
山田宏哉記 2004.5.28