「敗者のゲーム」とは何か?
「敗者のゲーム」(The loser's game)。1975年、チャールズ・エリスがThe Financial
Analysts Journalに発表した奇妙なタイトルの論文だ。エリスは、この論文の中で、ウォール街における投資が「勝者のゲーム」から「敗者のゲーム」へと転じた、という議論をした。
「敗者のゲーム」またその対概念である「勝者のゲーム」とは、株式投資に限定された話ではない。社会の仕組みそのものなのだ。
そもそも、「勝者のゲーム」「敗者のゲーム」とは何を指しているのか。これは、ゲームの勝敗が誰の行動によって決まるか、という点を問題にしている。誰かが"勝ち取る"
ことによって勝負がつくゲームが勝者のゲーム。誰かが"ミスで自滅する"
ことによって勝負がつくゲームが敗者のゲームである。
エリスは、テニスを例に、2つのゲームの違いを説明する。簡単に言えば、プロのテニスプレーヤーは、ファイン・プレーによって相手から点をもぎ取って、勝利する。従って、勝者のゲームである。逆にアマチュア・プレイヤーは、自らのミスで相手に点を献上して、敗北する。すなわち、敗者のゲームである。
従って、私がここでしたいのも、株式投資に限定された話ではない。「勝者のゲーム」「敗者のゲーム」という考え方そのものを身に付けることが、この社会で生き抜くための必須の条件である、という話である。もっと言えば、「敗者のゲームで勝つ」ことよりも、「敗者のゲームから抜け出す」ことを強く勧めるものである。
自分が勝者のゲームに強い人間なのか、敗者のゲームに強い人間なのか、判断を下して、自分に有利な方のゲーム(競争)にしか、参加しなければ、他人に対して圧倒的に優位な立場に立つことができる。他人と競争になった時、これは勝者のゲームなのか、敗者のゲームなのか、即断できれば圧倒的に優位な立場に立つことができる。
例えば、「何度、失敗しても、挑戦する」という行動力や、向上心に溢れたタイプの人は、決して、"敗者のゲーム"に深入りしてはいけない。なぜなら、失敗した時点で、ゲームオーバーとなってしまうのが、敗者のゲームだからだ。
なお、私自身は、圧倒的に勝者のゲームに参加している人間である。また、勝者のゲームに強烈に肩入れしている。
消去法は語る
1人ずつ脱落していく椅子取りゲームでは、最初のうちは、「勝ちにいく」ことよりも「ミスをしない」ことの方がはるかに重要である。つまり、敗者のゲームである。ただし、4人か5人で、残りの1つの椅子を争うという状況になれば、「勝ちに行く」姿勢が絶対に必要である。従って、勝者のゲームとなる。
では、具体的には、何が勝者のゲームであり、何が敗者のゲームであるか。それは、状況によって変わる。勝者が勝利することによって、勝敗が決するのか、敗者が敗北することによって、勝敗が決するのか、その1点を凝視するのである。
消去法という、戦略がある。積極的に何かを選択するのではなく、「あれはダメ、これもダメ」と短所があるものから、振るい落としていき、最後まで残ったものを選択する、という方法である。この方法を身につけることは、受験勉強では必須である。英語や国語の読解問題の答えが選択肢で示されている場合、“積極的”に「これが正解だ」と決める受験生は、たいてい成績が悪い。
そうではなくて、選択肢の問題は、「あれは、ダメ。これは、ダメ」と、消去法でダメな選択肢から削っていって、残ったものが正解、というのが受験の王道である。これは、「正解」というより、「間違ってはいない」と表現した方が適切だ。
また、消去法が非常に有効な戦略であることが、受験戦争が敗者のゲームである何よりの証拠である。何しろ、出題者自身が、「差がつく問題」でなければ困るので、ミスを誘う問題を作る。従って、マークセンスのセンター試験等は、いかに得点するか、ではなく、いかにミスをしないか、が問われる。
消去法は、敗者のゲームと非常に相性がよい。
国家試験の罠
さらに、消去法を職業選択にまで用いるものの一つに、公務員試験なり司法試験がある。就職のために、選択式の試験を受ける、という行為そのものが、敗者のゲームへの参加表明である。
彼らは、自由よりも、安定を愛する。学校時代、真面目に勉強して、よい就職先を見つける、という価値観を疑うことができなかった、哀れな人々である。皆勤賞が名誉なことだと、本気で信じている。話題となった、『金持ち父さん 貧乏父さん』(ロバート・キヨサキ)の「貧乏父さん」もまた、まさに敗者のゲームの勝利者にすぎなかった。
敗者のゲームで勝ちあがってきた人間の致命的な欠陥は、他人がミスをしない限り、自分から勝利をつかむことができない、ということだ。勝つべくして勝ってこなかった。ただ、受験にしても、誰かがミスをしてくれるからこそ、自分が合格できたわけである。死体を貪り食うハイエナと本質的には同じである。
敗者のゲームに属する人間に、リーダーの資質はない。彼らは、消去法が身についているので、基本的には、他人の失敗を待っているだけである。勝者のゲームでは、その定義からして、何もしないのがベスト、ということなど起こらないが、敗者のゲームでは、何もしないことがベスト、ということが往々にしてある。
そして、誰かが失敗すればこう言う。「あいつは、もう終わりだ。」 敗者のゲームに参加する人間は、基本的にこういうものの見方しかできない。自分自身は、ただ残飯をあさることに長けているだけだということに、気づいていない。当然、すでに終わっているのは、自分自身だということにも、気づいていない。
エリスが「敗者のゲーム」であると判断した投資にしても、投資家は、自分でその企業を経営しているわけではない。極端な話、彼らは、すべてを他人任せにして待っているだけだ。
官僚は、無能だと言う声をよく聞くが、決してそんなことはない。彼らは、敗者のゲームを勝ち抜いて来た実績があるからだ。だから、ミスをしない達人である。他人を蹴落とすことにも長けている。もっとも、それ以上の能力の保証はどこにもない。医者や弁護士や公認会計士も、素晴らしい功績を残すことよりも、ミスをしないことが重要となる。それが、出世競争のルールとなる。
いずれにせよ、安定を求めて、国家公務員試験を受けるタイプの人は、おそらく一生、敗者のゲームから逃れることができない。
繰り返すが、敗者のゲームとは、敗者がことの成り行きを握るゲームのことだ。ただ、字義上は、敗者のゲームとは、そもそも、”敗者が参加するゲーム”と解釈することもできる。そして、この解釈は、あながち的外れなものではないと思う。
「敗者のゲーム」としての日本政治
もうひとつ。政治もまた、選挙権が拡大し、かつては勝者のゲームだったものが、敗者のゲームへと変わってしまった。荒削りで野心と志に溢れた人物ではなく、凡庸で矮小で、ミスをしないことだけが取り柄のような人物しか政治家になれなくなってしまった。
現代日本の選挙は、完全に敗者のゲームである。「あの政党(政治家)だけは嫌だ」となるべく思われないことが、勝利への秘訣となる。従って、自分のイメージ・アップを計るより、ライバルのイメージ・ダウンを計った方が、効果が高くなってしまう。実際、土井たかこはライバル候補者に「拉致、拉致」と絶叫されて落選した。
支持者が積極的に、「この政党でなければならない」と確信しているのは、共産党と公明党くらいだろう。だが、この両党は、むしろ「あの政党だけは嫌だ」と広く思われている。従って、選挙で勝利して、最大政党になることはありえない。熱烈な支持者の1票も、鉛筆を転がして決めた人の1票も、価値は同じである。
選挙だけでなく、日本政治そのものが敗者のゲームと化している。
日本政治そのものが敗者のゲームなので、「可もなく不可もない」凡庸な人物が、総理大臣にまでなってしまう。古代ローマのユリウス・カエサルのような英雄の誕生は、望むべくもない。”不可がない”ことが、何より重要なのが、敗者のゲームだ。どんなに優秀であっても、金権体質であったりして、他人につけこまれるミスをするタイプの人間は、権力にとどまることができない。
おそらくは、括弧つきの「市民社会」と「デモクラシー」の構造そのものが、敗者のゲームである。政治を勝者のゲームにするためには、おそらく、選挙権を見識のある人に限定する以外、方法はない。ただし、そもそも政治が勝者のゲームであるべきか、疑問が残る。政治を勝者のゲームにするとは、おそらくデモクラシーとの決別を意味するからである。少なくとも、北朝鮮の政治体制は、明らかに「勝者のゲーム」だ。
「敗者のゲーム」から抜け出すために
これまで、敗者のゲームについて、解説してきた。では、最も肝心な問いに取り掛かるとしよう。
敗者のゲームから抜け出し、勝者のゲームに参加するとは、具体的にどういうことか。簡単なことだ。答えはもう出ている。
ミスをしないことより、成功が評価される仕事をする。
これに尽きる。従って、必然的に、安定を売り物にしている、公務員や金融機関、法曹界等には、背を向けることになるだろう。だが、それでいいではないか。安定と引き換えに、何も自分の人生を安売りすることはないだろう。
私は、敗者のゲームに勝利して満面の笑みを浮かべている人に、以下の言葉を送ろうと思う。
「あなたは、成功したのではない。ただ、失敗しなかったにすぎない。映画で言えば、ピンチもクライマックスもない駄作だ。」と。果たして、敗者のゲームで勝ち抜くことが、人間として尊厳のある生き方か。これ以上、言う必要はないだろう。
勝者のゲームに参加してこそ、本当に充実した生活を送ることができる。自分にしかできない仕事で、業績を残すことができる。生きている証を残すことができる。歴史に名を残す、一流の人間は、例外なく勝者のゲームの側の人間である。
そう、敗者のゲームから抜け出して、勝つべくして勝とうじゃないか。(了)
山田宏哉記 2004.1.29